徒然なるままの一考
2012年 05月 24日
器の形とは斯くも様々であるが、
掌に納まるその按配こそが精髄と云えるのではないだろうか。
それが抹茶茶碗であれば、作行きに心魅かれるのは碗に触れ茶を嗜むその時であろうし、
それがぐい呑みであれば、一献毎に感じる愛おしさに他ならない。
ぐい呑みが「掌中に納まる抹茶茶碗」と云われる所以は、此処にあるのではなかろうか。
器にしても料理にしても、その手を通して良さや味わいが伝わ り、
感じ、魅力に触れることとなる。
それはつまり手を通さねば本当の深みを知ることが出来ないという意味でもある。
殊更に云うまでもなく、焼き物とは土と炎の鬩ぎあいが造り上げるものである。
造り手の意が注がれた土は窯の中で炎群に包まれ、生まれ変わるのである。
其処に在るべくして欠かせない存在が陶人(すえひと)なのである。
当然至極のことなれど、それが名陶茶陶であろうが日々の器であろうが、
その人の“手”を経なければ何も生まれはしないのである。
陶人が紡ぐ器は、文字通り“手”で作られ、それを受け取った 私たちが“手”で使うものである。
それぞれの器に籠められた心意気は、土と釉と形の均整を生み出し眼前に現れる。
その居姿が琴線に触れることは想像に難くない。
人の手に依って生み出されるものだからこそ、規格というものが持ち得ない魅力を
心ゆくまで堪能することが出来るのである。
掌に納まるその按配こそが精髄と云えるのではないだろうか。
それが抹茶茶碗であれば、作行きに心魅かれるのは碗に触れ茶を嗜むその時であろうし、
それがぐい呑みであれば、一献毎に感じる愛おしさに他ならない。
ぐい呑みが「掌中に納まる抹茶茶碗」と云われる所以は、此処にあるのではなかろうか。
器にしても料理にしても、その手を通して良さや味わいが伝わ り、
感じ、魅力に触れることとなる。
それはつまり手を通さねば本当の深みを知ることが出来ないという意味でもある。
殊更に云うまでもなく、焼き物とは土と炎の鬩ぎあいが造り上げるものである。
造り手の意が注がれた土は窯の中で炎群に包まれ、生まれ変わるのである。
其処に在るべくして欠かせない存在が陶人(すえひと)なのである。
当然至極のことなれど、それが名陶茶陶であろうが日々の器であろうが、
その人の“手”を経なければ何も生まれはしないのである。
陶人が紡ぐ器は、文字通り“手”で作られ、それを受け取った 私たちが“手”で使うものである。
それぞれの器に籠められた心意気は、土と釉と形の均整を生み出し眼前に現れる。
その居姿が琴線に触れることは想像に難くない。
人の手に依って生み出されるものだからこそ、規格というものが持ち得ない魅力を
心ゆくまで堪能することが出来るのである。
by drink-style
| 2012-05-24 23:19
| 酒道具